チリペヂィア

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語るに落ちる、オチないセックスワーク論

はてなで見かけた注目のエントリ。
キリンが逆立ちしたピアス-セックスワークについては、日々議論されている

それと、
brighthelmerの日記-お父さんが語る売春

に対する
キリンが逆立ちしたピアス-お父さんのヒロイズムはいらない

で、そもそも事の発端になったエントリがコチラ。
内田樹の研究室-セックスワークについて

私は多分、font-daさんのキリンが逆立ちしたピアスのエントリが一番近い考えを持っているんですが、ただこのトピックについては、何の予備知識も無いまま触れると本当に分からない議論じゃないのかと思う事があり、かなり長いんですが一発書いてみようと一念発起しました。ちなみにこんな重い話を本格的に人と掘り下げた事も無いです。ましてや専門家のポストにからむなど恐れ多い、ズブのとうしろうである事を最初に宣言させてください。

内田氏のエントリこそ、ちょっとオジサンくさい

さっそくなんですが唯一納得できたのは「喧嘩腰は良くない。」です。それは確かに!対して「いくらなんでもマズいだろうコレ」と感じるポイントを挙げると最低2つあります。

  • 弁証法止揚の益の無さを最初に言った当人が、かなりの部分を問題定義や抽象論に終始する。
  • 問題が多面的であることに異論は無いが、ほじくりかえすだけ全部ほじくりかえしておいてやりっぱなし。

端的に言えば「語るに落ちる」という印象を受けました(だって無駄に長いわりにオチてないんだもん…なんかそういうのってどうしても、女性が男性に抱きがちな”優柔不断な男の鈍さ”に近い印象で映るような気がしませんか?「だから脱いだ靴下をリビングに放るのやめてよね!私はあなたのお母さんじゃないのよ!」みたいな(*1)。

まぁ上述の2点はスタイルとかリテラシの問題で、構成を書き直せば済むような話なんですけど、さらに内容に踏み込むと、私は以下の点で個人的に同意しかねます。

「原理の問題」と「現実の問題」は別々に扱う方がいい。

これはまったく同意したいのですが…。

何故かその後、内田氏の「必ずしも個人的なものとは思われない」としか説明できない気持ちの問題と「現実の問題」とをおのおの独立させず両輪で考えようとする。

いやそれはおかしいでしょう。なんかもう堂々巡りです。話の展開もフーコーとかニーチェの引用を持ち出さざるをえないのも、それが非常に困難で長大すぎるアプローチだからです。私もタイムライン上、「原理の問題」と「現実の問題」の二軸が同時に存在するのは仕方ないと思います。しかしこの両者の解決に理論的な循環経路を作る場合、両依存関係のせいで、だいたい同じタイミングで一緒に答えが明らかになる性質があります。そしてどっちも解決できる都合の良い理屈が見つかるまでの長い時間、一方「現実の問題」では血が流れ続けます。理想論の導出にかかる時間の問題が看過できないと思うのです。性にまつわるトピックを民意として結論する事は果てしなく望みが薄いと思います。だって、昔から男女の事はわからんって言うじゃないですか。じゃあ、いかに望みが薄いのか考えてみたいと思います。

「男女のことはぶっちゃけワカラン」とした上で「ワカランが現実的には社会制度は定めなければならん」

私は学校でやった以上には与謝野晶子は知りません。当時健在だった父権社会に対し異議を打ちたてる上で大きな一歩であったことは想像に難くありませんが、ただ今さら掘り下げるほど特殊な事でもなく、むしろすっかり陳腐化したフェミニズムだと思っています。では現代、既に社会進出した女性を含めて考えれば、「性のこと」この点を明らかに規程したり、「男とは、女とは」普遍的に納得できるパターンを求めるのは、もはや社会におけるマジョリティの要求ではないと思うのです。少なくとも、一意にまとめる事はもうほとんど不可能な状態に入ったと思います。もしかしたら古典的な男性ほど、「社会におけるあるべき順当な性生活」や男女の事をリードする義務感に駆られるのかもしれませんが、多分それと同じくらいには、「自立する女性はそのへんも勝手にしたい」のがイマドキの普通だと感じています。もしかしたらオヤジ化した女性達は古典的な男性と同様に、異性すなわち男性をできればそのように(父権社会で男性が女性にしたように)みなしたいと思うかもしれません。少なくとも現に今、仕事一辺倒の女子は、家事が出来る女の友人に「結婚して!」と冗談めかして言うのです。もっと多いのはただひたすらに謙虚か無関心かもしれません。これらのあらゆるベクトルを足して平均を求めればゼロにしかならないでしょう。セックスワーカーは男のために存在させられる被害者である面がとても強いとみなしたフェミニズムと、うむ確かにそうかもしれん、ちょっと考えなおそうぜ!という素直すぎる認識は、現状を見れば「評価するに値しない」とまでは言わないのですが、あきらかに風化はしています(ちょっと前の「アゲ嬢」ブームとかどう説明するんでしょうか。あの時もやはり職業人気の上昇と、旧態依然とした勤務体制のグレーさが話題に上がったはずなんですが…)。

そもそも典型的父権社会は既に寿命

寿命というか、かつてフェミニズムが対決した相手はもう存在しない仮想敵なんじゃないかと思います。少なくとも幼稚園児のおままごとでは男の子も参加させられちゃうのがすでに一般化しており、女の子に人気の役割はママではなく年頃の娘や自立した女性役で、男の子に人気の役割はペット…パパどころか人間ですらナカッタ!というのがネットで笑い話になりました。またかつて悪い父権社会とされたものも消えたわけではなく、今ではよりその性質のみに着目した「癒着構造」「村社会」など別の名前の社会悪として再定義されているのではないでしょうか(後述しますが父権社会で許されなかったのは父の存在ではなく権威構造そのものです)。もしメディアが正しいのであればオヂサンどもを正直駆逐したいキャリア女子という層もいるのかもしれませんが、とりたてて男性だから過剰に攻撃する女性の概念というのはそこまでは現存せず、そういう意味で古典的フェミニズムあるいは女性活動は役目を終えつつあるというのが私の実感です。

フェミニズム論争から制度策定へ」のターニングポイントは堕胎の議論だったような気がする

フェミニズムが古いのは良いとして、昨今では性の扱い(価値の尊重)がややロジカルすぎる(感情的な面ではぞんざいに過ぎる)可能性については確かに否めないのですが、そんな悠長な事を言ってられない歴史もあります。先ほど「血が流れる」という表記をあえて使ったのはこの堕胎論争の歴史があるためです。主にアメリカ社会で大論争が起こりました。これが実に情けない話なのです。まずアメリカでも堕胎そのものはセックスワーカーの問題同様に公然の秘事として存在していました。開拓期までさかのぼれば、10人近い多産も普通でしたし、比較的おおらかな時代だったと言えます。それが医療の草分けと発展で強気になった当時の医師会が、生命の尊厳を訴えて堕胎に反対した理由としては、実のところ安価に堕胎処置をするネイティブアメリカン系の無免許の民間医療に対抗し、出産とその後のケアを顧客として見込んだと言う台所事情があり、白人人口を増加させて議会制(多数決)を有利にしたい政界が「女性が社会進出と出生率の安定とともに急激に出産数を低下させた」事に焦って医師会と結託し、本格的に取り締まり始めたところ、フェミニストもおおまかに言えば「堕胎は女の罪なのか、現場においては男の責任じゃないのか」「女の性は権利なのか、呪いなのか」といった果てしない論争が起こり、一方闇医者や自分の手で適当な処置に走る女性を止められず、議論の最中にも母子ともにバタバタと亡くなる有様を経て、最後の決着は「いずれにせよ国教から殺人は許されない。すなわちどの時点で胎児とみなすか(人権を有するか)」という議論に至りました。アレそんな話だったっけ?19世紀はじめから半世紀以上続くこの議論は遠大過ぎて気が遠くなります。このあたりから古典的フェミニズムイデオロギーが果たして人間を救えるものだろうか、ちょっと違うんじゃないのかという方を向き始めたような気がします。

セクハラの定義(そしてごくまれに冤罪が発生する)

堕胎の議論を経て、セクハラなどこういった分野も明らかに法律としてガイドラインが作られるのが急激に一般化したように思います。しかし男女のことはワカラン、というのは、どうにもこれらのトラブルは密室で起こり、一般論などものの役にも立たず当事者以外の余人の手にはなんとも余る特性を現に示しているためです。ただ少なくとも現行法でも無いよりはずっとマシで、問題含みではあれ女性が進出した今どうにか運用されている点だけは評価できます。こういった性の問題、すなわちセックスワーカーの正当性についても、議論したからといって果たして、現実的にその導出コストに見合うだけの効果がはっきり認められる、かつ市井の人々が納得できる美しい落としどころが存在しうるのか、私は甚だ疑問です。そこはそんなに美しい決着をするべきでしょうか。セクハラ同様「理想には遠いが無いよりずっとマシな着地点」をまず探るべきでしょう。だっていざ「ウッカリ傷つけた」として「どこまで愛情表現だったかの話」って言われたらどうしようもないじゃないですか。でも「どこまで業務だったかの話」であればアウトかセーフかアッサリ終わるんです。私も内田氏の「必ずしも正しくなくてかまわない」という意見には賛成なので、それなら「バッチリ作動するとは言い難いが、概ねうまく動く」場当たり的制度の導入を提案します。

セクハラについてもう少し考えるべき点があります。ハラスメントの罪は「性別は根本的には不問」とされることです。これは権威を縦軸にとって上下に位置する人間関係において、権威強者から権威弱者へのはたらきかけが、じゅうぶんに自発的な選択が可能であったか、強制であったかという点において権威の力の差を埋めるために導入された人間関係の対等を担保するための犯罪定義です。ハラスメント犯罪は堕胎以前のフェミニズムvs父権社会と同系でありつつも、より高度に抽象化された問題定義とそのひとつの回答例であると言えます。またその性質から言って「一般的に弱者とされる」側が一方的に強く支援される実装の問題をはらんでもいます(原理的にレアケースで冤罪を生じやすい)。そして繰り返しますが父権社会は父性が攻撃されたのではなく、父的立場にある人間が知ってか知らずか結託して不当競争を部外者(女性)に強いるように見えた、既存の権威構造が攻撃されたのです。このハラスメントという罪の導入は、男女という性別的バイアスをできるだけ取り除いて人間同士としてオープンに向き合おうぜという、女性らしくもあり実に男前な提案であったと思うのです。

総じて内田氏の結論では、セックスワーカーへの助けにはならない

セックスワーカーになるシナリオで言えば、自ら進んでなるタイプというのは結局本人納得の上という事になり、彼女または彼らは進んで自分たちの価値観を作っていくはずで、これは問題にはなりません(*2)。だとするとやむなくセックスワークに従事している、いわゆる権威弱者に対してフォーカスするべきであり、歴史(過去のパターン)を鑑みるに、セックスワークの道義性なんてものはとりあえず優先度を低いままにするべきかと考えます。結論の出る公算が果てしなく怪しいこれらの性にまつわるトピックは、こねまわすうちに堕胎と同様、今リアルタイムで困っている人をとりあえず存在させ続けてしまう危険性の方がむしろ高いんじゃないのかというのが私の意見であり、この点はおそらく「キリンが逆立ちしたピアス-セックスワークについては、日々議論されている」もほとんど同じ事を言っていると思うのです。また同様に「お父さんの意見なんていらないよ」というのもまた、ハラスメントで導入している「性別的バイアスからの脱却を考えようぜ」という議論より前に退化しちゃうだろ、ナニヲイッテルンダ、という指摘なのだと思います。

ただお父さんの意見というのは言い得て妙

書いてる私の頭がそろそろパンクしそうです。このやりとりはまとめると「そんな簡単に性別的バイアスを脱却できないよ、オレは娘居るけど若い子のオッパイ見ちゃうんだもん!」「いいや俺は尻だ!」という実にド正直な問題があるよね、という点だけはものすごく婉曲かつ絶妙に掘り出しています。ただそれを公的な場で、いかにもそれらしい書き方をしたのがまずいと思います。橋本元市長発言同様に、間違っちゃいないが熟慮が足りず、その実なにも解決しちゃいない印象を受けるのです。ちなみに私はモチロン男ですが、正直お父さんの意見を「ヒロイズム」は褒めすぎでしょう。ハッキリ言って有史以来、はじめて劇的に変化した戦後の性の問題について、自分の中の「男」のやり場に困ってしまった、置いてけぼりの、もっと哀愁に寄った感傷なんです。それを運悪く、少子化女性手帳)とかで雲行きが怪しくなっているところにわざわざ丸腰で地雷を踏みに行く蛮行だったように思います(一方で、性の対等についてそこまでドラスティックな意見を持ってはおらず、四苦八苦している男性像をどちらかと言えば気の毒に見ている女性も居るとは思うんですが)。

ただ確かに、父権社会の残骸の中にいると、こういった歴史の遷移は驚くほどタブーに近く、ほとんど一部の人々を除いて知るチャンネルが無い情報ではあるような気がします。おそらく女性の総意としては男には正直言ってアレコレ口出しして欲しくないんだからそう強く喧伝する気もないんだけれど、でもだからと言って適当な事を言われるのは黙っちゃいられないのかもしれません。かと言って男は黙っとけ、でも勉強はしとけ、というのはちょっとハードルが高いような気もするんですが。



中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争

中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争

ちなみに私も専門家ではなくこのへんの小説に影響されている面が多分にあります(あぁっ語るに落ちる!)。
ディスクロージャー (Hayakawa Novels)

ディスクロージャー (Hayakawa Novels)

緊急の場合は (ハヤカワ文庫NV)

緊急の場合は (ハヤカワ文庫NV)

*1:もし、内田氏が靴下を投げたりはしない人物でしたら、本当に申し訳ありません。

*2:問題にならなくはないのですが性のありようについてはどこまで言っても趣味や主義の話であり、正しいありようは存在しない気がするのです。社会性も含めて動物の行動様式として性のあり方は実際多様です。人間ですら文化が変われば一夫一婦制がすでに全てではないのです。だいたい少子化も社会的には大問題ではあれ、出生率や生存率の上昇に比して繁殖率が低下するのは動物としては極めて天然自然な現象です。繁殖しすぎると皆で仮死状態に入って休眠する菌とか居るらしいです。また生命というのは「効率」に関してはかなり正確無情な習性を基本的に仕組まれていて、例えばほとんどどんな獣道も安全かつ最短ルートを構築するものです。言われてみれば人間でも自然と遠回りして歩く習性がある人は見た事がありません。いかに人間と言えど、動物としてみた時、生物としては頭抜けたバースコントロールを強力に行う以上、それだけ生来持っている生理に反するバックドア行為である可能性は多少あると思うのです。意味の分からない遠回りに歩く癖をつけるような負担や倒錯を生む可能性については相当巧みにフォローする知恵が同時に必要だと思います。またどの程度自然な状態に近く、あるいはどの程度不自然な負荷がかかっているのかは多分時代によって(おそらくは近年とくに急激に)変化しています。また本来は全て成り行きに任せるところを中途半端に好き勝手にしているのですから、これは当然、理想論だけでも、都合の良いところだけ成り行き任せにしても、うまく運営できない部分だと思います。今、性の問題に必要なのは清濁あわせていて、かつかなり公的に強力な枠組みだと思います。そして現在の女性活動に類するものはすでに本質的にはそういったステージの議論にとっくに移っているような気がします。もし社会現象としてすでに性に対する倒錯を感じるならもちろんそれは重要な事だと思うのですが、本来的な愛情のあり方とその魂の希求はどこに由来するのかという点については、もうちょっと具体的に考えるべき問題ではないでしょうか。